父が危篤だという、一本の電話が、私のスマートフォンを震わせたのは、平日の、深夜2時を過ぎた頃でした。頭の中が真っ白になり、ただ、震える手で、故郷へ向かう始発の飛行機を予約しました。そして、次に私の頭をよぎったのは、「会社に、どう連絡すればいいのだろう」という、現実的な不安でした。こんな真夜中に、上司のプライベートな携帯を鳴らすわけにはいかない。しかし、朝まで待っていては、始発には間に合わない。途方に暮れた私は、震える指で、スマートフォンのメール画面を開きました。件名に「【緊急連絡】明日の休暇のお願い(〇〇部 私の名前)」とだけ打ち込み、本文には、「夜分遅くに大変申し訳ございません。先ほど、父が危篤との連絡を受けましたため、誠に勝手ながら、明日の朝から、急遽お休みをいただきたく、ご連絡いたしました。状況が分かり次第、改めてお電話させていただきます。取り急ぎ、メールでのご連絡となりましたこと、お許しください」と、それだけを、必死で書き綴りました。送信ボタンを押した後も、私の心は、不安でいっぱいでした。「こんな一方的な連絡で、許されるのだろうか」「社会人として、失格ではないだろうか」。しかし、空港へ向かうタクシーの中で、再びスマートフォンが震えました。上司からの、返信でした。そこには、こう書かれていました。「大変な時に、連絡ありがとう。メール、ちゃんと受け取りました。仕事のことは、何も心配するな。チームで、すべてカバーするから。今は、お父さんのそばにいてあげなさい。そして、君自身も、体を壊さないようにな」。その、短く、しかし、どこまでも温かい文章を読んだ瞬間、私の目から、涙が、とめどなく溢れ出てきました。メールという、本来なら、無機質で、冷たいはずのデジタルなツールを通して、上司の、そして、その向こう側にいるチームの仲間たちの、血の通った、温かい心遣いが、痛いほど、伝わってきたのです。マナーや形式も、もちろん大切です。しかし、人が、本当に打ちひしがれている時に、その心を支えるのは、ルールブックには書かれていない、人と人との、純粋な思いやりなのだと。あの日、夜明け前の薄明かりの中で読んだ一通のメールが、私に教えてくれた、何よりも尊い真実でした。
私が忌引きメールに救われた日